無法松の一生ホットニュース

連載 無法松の話

第1回 「無法松の誕生」

昭和13年、火野葦平が「糞尿譚」で芥川賞を受賞し、中国杭州で異例の陣中授賞式が行われたことは、九州の文学者を勢いづかせました。

9月に小倉の「とらんしっと」、福岡の「九州芸術」「九州文学」、久留米の「文学会議」四誌が大同団結して、第二期「九州文学」が創刊され、これに、矢野朗「肉体の秋」、劉寒吉「人間競争」、原田種夫「風塵」が発表され、いずれも芥川賞候補になり、岩下俊作の「富島松五郎伝」(のちの「無法松の一生」)は直木賞候補になります。

この時代日本は戦争に突き進んでいました。昭和6年満州事変につづき国際連盟脱退、12年には日中戦争、13年には国家総動員法と戦時一色の中で誕生した「富島松五郎伝」は、70年に亘って、日本人に愛されてきました。 

 

 

第2回 「無法松ってこんな話」

「富島松五郎の話である」に始まる「無法松の一生」は、おおむね7つのエピソードで書かれています。

①若松警察の撃剣の先生との喧嘩によって「無法松」のあだながついたこと

②気っ風のいい博打の打ち方をほめられたこと

③小倉常盤座で大喧嘩をしたこと

④凱旋将軍奥大将に「オマエノイクトコハシッチョル」と豪快に笑いとばしたこと

⑤小倉工業高校の運動会に飛び入りで優勝

⑥小倉中学と師範学校の喧嘩に割って入ったこと

⑦小倉祇園で「流れ打ち」「勇み駒」「暴れ打ち」の古い打ち方を披露

 

全体を貫くのは岩下文学の真骨頂のリリシズム。吉岡夫人への恋慕の情を秘めながら、孤独の内に死んでいく。日本人はそこに男の潔い美学を見てきました。

 

 

第3回 「芝居に、映画に、テレビに、歌に」

昭和17年、文学座が、森本薫・脚色、丸山定夫、杉村春子で舞台化。

翌18年には、伊丹万作・脚本、稲垣浩・監督、阪東妻三郎、園井恵子で映画化。日本映画最高の名作と言われています。

以後舞台は新派(柳永二郎、大矢市次郎)、新国劇(辰巳柳太郎)、歌舞伎(中村勘三郎)、文学座(三津田健、加藤武)、宝塚(榛名由梨)の他、田村高廣、杉良太郎、村田英雄、北大路欣也、沢竜二、津嘉山正種などが松五郎を演じてきました。

映画では昭和33年、三船敏郎・高峰秀子で大ヒットし、ベネチア映画祭でグランプリを獲得。勝新太郎も演じました。テレビでは南原宏治。歌は村田英雄、坂本冬美。勿論青春座は昭和22年初演で今回が13回目の公演です。

 

 

第4回 「二度切られた阪妻の無法松」

昭和18年、伊丹万作・脚本、稲垣浩・監督、宮川一夫・撮影、阪東妻三郎の無法松、宝塚の園井恵子の吉岡夫人で映画化されました。(因みに敏雄を演じたのは現在の長門裕之)。

戦争のまっただ中、松五郎の愚直な生き方に日本人は喝采を贈りました。

しかし、この映画は不幸にも当時の軍部(内務省)の検閲により約10分間カットされました。一車夫風情が帝国軍人の未亡人に懸想(思いを寄せること)するとはもってのほかというのが理由のようです。しかし皮肉にもカットされ、そぎ落とされてかえって松五郎のとぎすまされた心情を際だたせる結果になりました。

 

戦後はGHQが8分間のカットを行います。アメリカによって民主化された日本で、提灯行列や軍歌などは、軍国主義につながるという理由です。

阪妻の無法松は、二度に亘ってカットされましたが、作品は時代がどんなに変わろうが、日本人のあるべき姿を示しているように思えます。

 

 

第5回 「三船の無法松」

村田英雄の「無法松の一生」が大ヒットを飛ばした昭和33年、伊丹万作・脚本、稲垣浩・監督、宮川一夫・撮影の戦前トリオで「無法松の一生」がカラーで映画化されます。

 

戦前カットされた脚本をノーカットで三船敏郎の無法松、高峰秀子の吉岡夫人は、戦後最大の傑作といわれています。三船は役作りのため舞台となる古船場町をみてまわり、相手役の高峰秀子は「身分の違う人への愛。自分が吉岡夫人だったらきっと松五郎が好きになったかもしれない」と役に打ち込んだといいます。

この映画は秋のベネチア映画祭でグランプリを獲得します。

羽織、袴姿で授賞式に参加した稲垣浩は、感激して日本に打電します「トリマシタ、ナキマシタ」。 映画はその後世界の七十数カ国で上映され、小倉祇園太鼓が地球を駆けめぐった事になります。

 

 

第6回 「青春座の無法松」

昭和20年10月に創立された劇団青春座は、旗揚げ公演に石坂洋次郎の「若い人」でスタートします。 そして昭和22年、森本薫・脚本で「富島松五郎伝」として初演します。

初代松五郎は斎田明。そして昭和39年、二代目無法松に井生猛志、吉岡夫人は碇郁子(後の井生郁子)を配し、「無法松の一生」として上演。平成2年の中国・大連公演まで約26年に8回の公演でコンビを組みます。 井生猛志の無法松は最初は32才で、常盤座の喧嘩場面、祇園太鼓の場は精気に溢れ、最後の舞台は58才と年輪を重ねる毎に、松五郎の孤独感が際だち、青春座といえば無法松といわれる十八番の演目になってきました。

今回は15年ぶり、13回目の無法松。三代目無法松は、昭和59年に入団し、数々の主役を演じてきた荒木喜三太。青春座の新しい歴史を開きます。

 

 

私と「無法松」  富島松五郎こと荒木喜三太

第1回

「松五郎はお前がやれ」と演出から言い渡されたのは、昨年師走間近の、とある居酒屋であった。

お互い大好きなジョッキのビールを前にして「えーーっ ! ?」という表情は作ってみたものの、心のうちは私にとっては必ずしも青天の霹靂ではなかった。なぜなら「私にも演れる筈」と多少の自惚れも手伝って松五郎役に抜擢されることを心の奥底に密かに沈殿させていたからである。

「多少の自惚れ」、これが大事、これこそが私を振るい立たせる原動力。

かくして私はある意味では我が青春座の歴史を形作ってきた「顔」とも云える「富島松五郎」、この途方もない大役に挑戦することとなった。

 

創立60周年を迎える劇団にとって三代目「松五郎」の誕生、いやまだ誕生してはいない、立ち稽古に入ってはいるけれど今だ卵にさえなっていない。

 

それにしても二代目「松五郎」井生猛志は素晴らしかった。役者本人が「無法松」みたいな人だったけれど、阪妻、三船敏郎をも凌いでいた。これは青春座の「無法松」を観たことがある人なら、誰もが思っているはず。衆目の一致するところなのだ。(続く)

 

 

第2回

「太鼓のバチさえ握ったことのない私が・・・」と思い始めたのには時間はかからなかった。だがやらねばならぬ、後には引けない。いまさら幕は待ってくれない。

 

この年齢になっての筋トレ、太鼓の練習・・・悪戦苦闘中。

今や「多少の自惚れ」は霧散してしまいそうだけれど無くしてはいない。

これが私を支える唯一のパワーなのだから。

 

人の心を打ってやまない松五郎の愚直なまでの純粋さ、少年のごとき純情、その心情は現代の日常生活に追われている私にも少しは残されていると自負している。 せめて、それを精一杯表現しよう。

 

劇中、松五郎の台詞「・・・もの心ついてから 泣いたんは 後にも先にもこのときだけじゃった。」私はこの台詞に一番の思い入れがある。いたいけな子ども心にも泣いたら負けだと、泣くことさえ許されなかった「男・松五郎」・・・。

 

気負いはない、気負いはないが幕が降りるまで「泣き言」を封印しよう。

嘉穂劇場で稽古。回り舞台もしっかり廻しました。 2005.04.09

4月に入って稽古も熱を帯びてきました。

最新の北九州芸術劇場と伝統の嘉穂劇場公演。 どちらも充分お楽しみ下さい。

重要な役割を果たす二人の吉岡敏雄(坊ん坊ん) 2005.04.17

北九州公演は木村晃久君。あやめが丘小学校の4年生で、繊細な演技を魅せます。

嘉穂劇場の出演は渕上壮太君。飯塚小学校の3年生。大らかでのびのびとした敏雄役を演じます。

芝居は役者が一人でも変わると、全体の質が変わります。芸術劇場と嘉穂劇場の違いとともに、両方お楽しみ下さい。

敏雄役:北九州出演の木村晃久(右) 嘉穂劇場出演の渕上壮太(左)

15年ぶりの「無法松の一生」お見逃し無く! 2005.05.06

平成2年中国・大連公演以来15年ぶりの無法松です。

長年無法松役を演じてきた井生猛志に代わって、三代目無法松は、荒木喜三太。期待が高まっています。

幕開きのワクワク常盤座。吉岡敏雄の「青葉の笛」の唱歌、小倉祇園の太鼓、吉岡夫人への想い、そして雪の小学校での無法松の死。場面場面に見所一杯です。

劇場にお出かけ下さい。北九州芸術劇場大劇場です。

劇団一堂でお待ちしております!

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