その1「芝居事始め~夢満開」
小倉で何代か続いた漁師の五男坊で育った私は、子どもの頃から海が大好きだった。
オヤジは終戦直後に亡くなり、休みには後を継いだ兄達の舟に乗せて貰って、
時々櫨を漕いだり舵を握って、大きくなったら舟の船長さんになるのが夢だった。
小学校時代は、宿題をしないで廊下に立たされる常習犯だった。
分からないわけではないが、海の広さに比べればちっぽけな事のように思えたのかもしれない。
そんな私が、中学生になった途端、俄然学校の勉強にめざめた。
ガイジンのような若い英語の先生に褒められるのが嬉しくて、興味を持つから分かる、
分かるから面白い、休み無しに毎日五時間は勉強していた。
結果は胸を悪くしてダウン。十五才の夏だった。
オフクロが心配して、京都郡勝山町の「胸の観音様」に病気が早く治るように願掛けしていたのを兄たちから聞かされたのは、ずっと後の事だった。
運良く高校には入ったが体調悪く一年休学、弟と同級生になり、体育の時間はいつも見学、修学旅行は弟と一緒。カッコの悪い高校生活を送った。
昭和三十五年、兄たちの援助で大学入学。
21時間かかって、六十年安保まっただ中の東京に出発。
いがぐり頭にズック。青雲の志といいたいところだが、十九才の少年には相当の緊張があった。
入学式当日、見るもの聞くもの珍しい、クラブ勧誘チラシをいっぱい貰って下宿で眺めていると、一枚の劇団勧誘チラシに劇団「こだま」「未経験者可」。
あれ、俺のことかなと、翌日部室を覗くとオイさんみたいな先輩が、
“君、クニどこ”
“ハイ、九州の小倉です”
“あ、そう”
「君」なんていう言葉が妙に新鮮で、そのまま稽古場に直行。
当時は新劇の影響が強く、稽古は毎日四時から九時まで百日稽古。
その真剣で凄まじい稽古風景に圧倒されて、まさに三日坊主。
“スミマセン私の来る所じゃありませんでした。辞めさせて下さい”
件の先輩は“マアマア”と連れて行かれたのがラーメン屋。
生まれて初めてのラーメンに結構感激もし、何となし義理も感じて、“春の公演だけはやらせて貰います” 。まさかこの一言が、四十年以上も芝居を続けることになるとは、知る由もなかった。
東京は世にいう六十年安保で騒然としていて、樺美智子さんの死に涙をし、デモか芝居かで悩みながらも、無事公演が終了。
三日、三月の例よろしく“これで辞めます”。“ マアマア”と今度は喫茶店でコーヒーをおごられて、もうがんじがらめ。
役者には興味がなく、舞台装置や舞台監督など裏方専門でやってきたことが後年役に立つことになる。四年生の夏、九州公演を計画。小倉、大分、延岡と生意気にも地方公演を実現、お陰で教育実習をさぼって、先生になる夢は頓挫。
昭和四十年、立派に五年かかって無事卒業、合併二年目の北九州市に帰り地元のホテルに就職し、必然的に兄が所属していた劇団青春座に入団することになる。
劇団青春座は昭和20年10月に創立され、今年で五十八年目を迎えたアマチュア劇団で、昭和49年に代表を受け継いだが、劇団の存在理由は地域にあると考え、「無法松の一生」「古賀政男」「杉田久女」など九州の題材を掘り起こす事を主な活動にしてきた。
長い活動の中で、地元劇団の合同公演、二度の東京公演、中国・大連公演を成功させ、「北九州市民文化賞」「サントリー地域文化賞」「福岡県文化賞」「文部大臣表彰」などを受けてきた。
平成5年には、「北九州演劇祭」を初代委員長として立ち上げ、昨年北九州演劇祭十周年記念「小倉城の女たち」を市民参加で公演、成功をおさめた。
地元劇団の活性化を図り、新しい才能も輩出して、北九州市は演劇の街として全国に知られるようになってきた。
そうして今年秋、待ちに待った「北九州芸術劇場」がオープンする。
北九州市には旧市にそれぞれ市民会館があり、多目的ホールとして役目を果たしてきたが、長年中心になる「劇場」建設を望んできた。それが実現する。
単なるハコモノが出来るだけじゃない。出会いと感動の「るつぼ」が出来る。「創造文化」の拠点ができて、この劇場は街を変える。北九州市が全国に誇れる文化の街になる。
43年も休み無しに走り続けることが出来たことを、今は亡きオフクロに感謝感謝。
私のこれまでの活動は、新しい劇場に立ち向かう助走に過ぎなかった。
19才の少年に戻って、加速をつけて走り出そう。北九州市が日本一の演劇の街になることを信じて。夢満開。
その2 北九州演劇祭の行く道
昨秋、北九州演劇祭10周年記念の「小倉城の女たち」のプロデューサー兼演出を担当した。地元劇団を始め、一般参加の市民、各種団体合わせて120人の出演者が、6ヶ月の稽古を経て、小倉市民会館の舞台に弾けた。
2千人を超える観客が、拍手を送り、参加者と観客は未だ余韻に浸っている。演劇祭の10年を締めくくるに相応しい公演だったと思う。
この成果を演劇祭にどう活かしていくか。キーワードは「市民参加」だろう。8月オープン予定の北九州芸術劇場オープニングラインナップが発表され、多種多様、いずれもワクワクする演目が並んでいる。北九州市に演劇文化の新しい波が起こるだろう。
でもでも芝居は「観る」と「創る」のふたつが必要。特に「創る」は継続した地道な活動が要求される。幅広い「市民参加」こそ、文化の裾野を拡げる事につながると思う。北九州市民は、毎年北九州芸術劇場の檜舞台を踏むチャンスがあるというのも、「北九州らしさ」じゃないかな。
その3 続けることに意味がある!?
青春座が敗戦直後の昭和20年10月に創立されてから、今年58年目の春を迎えた。一度も公演を休むことなく、よくぞ続いたものだと我ながら感心している。一枚の写真に、過去の劇団員たちの汗と感動が沁みついて、ちょっと甘酸っぱい気持ちにもなる。歴史と伝統がずっしりと肩にのしかかる。
でもね、長けりゃいいってもんでもないしね。劇団は何のために存在するのか、芝居を通じて北九州市をこんな街にしたい、お客様と笑いと涙を共有したい、私自身そんな反問の43年間だったように思う。でもまだ答えは見つからない。
過去の評価は何の意味も無い。これからどうするかが大事だ。
『青い鳥』を探しに、さあ、今日も稽古だ。
その4 開演前はワクワクなのに!
芝居を見る楽しみはいろいろありますが、なんといっても開演前のワクワク感は、劇場に行かないと分からない。何日も前から楽しみに、当日は仕事を段取りよく片付けて、さあ劇場へ。普段なかなか会えない人とぱったりなんてあったら、それだけで嬉しくなる。
開演5分前の1ベル。もうワクワク。ところが開演時間になっても幕が開かない。
平気で開演時間を遅らせる。5分経っても10分経っても幕が開かない。
いいかげんにしろ主催者~~。お客さんは早くから来て、息を殺して待ってるよ。
せっかくの夢の世界の導入をぶち壊すな。
因みに青春座は絶対に定刻に始まります。
その8 100点は取れなかったから 2003.5.21
一つの公演が終った。考えられるあらゆる準備をし、全エネルギーを燃やし尽くして、もうこれ以上はないと公演にのぞんだ。お客様のそれなりの評価も頂いたのに、むなしさが残る。あれだけやってもこの程度かと、自分の気持がブルーになる。もう二度と芝居なんかしたくない~~と自分に言い聞かせる。
でも、三日たったら、性懲りもなく「このままでは止められない。100点取るまでがんばるぞ~~。」という気になる。因果なこと。
酒など飲んでる場合じゃない。ぐだぐだする暇があったら走りだそう。
11月は「白蓮と伝ネム」。北九州芸術劇場と嘉穂劇場が待っている。
ご期待下さい。
その9 一つの時代が終った 2003.5.26
5月18日、小倉市民会館「恋してシニア」のカーテンコールで舞台挨拶に立った私は、途中言葉が詰まった。最近は年のせいか?妙に涙もろくなっていたせいでもない。昭和34年10月、小倉市民会館が開館したときまだ高校生だったが、小倉に最新のホールが出来、数々の名舞台に出会える事が出来た。
開館間もない昭和36年民芸の「イルクーツクものがたり」の奈良岡朋子と斬新な舞台美術は、今でも鮮明に覚えている。劇団四季の「ジーザスクライストスーパースター」の荒涼とした舞台は、芝居への夢をかき立ててくれた。
その小倉市民会館へのお別れを、「無法松の一生」のラストシーンで飾ることが出来た。あなたの意志を受け継いで、北九州芸術劇場に挑みます。
アリガトウ、そしてお疲れさん。
その11 サントリー地域文化賞の25年 2003.7.9
劇団青春座は、昭和59年11月第六回サントリー地域文化賞を受賞した。
福岡県では初めての受賞だった。あれから19年、受賞式で「受賞は終わりでなく始まりです」と挨拶したのが昨日のようだ。
そのサントリー文化賞が25周年を迎え、7月15日初めて東京で受賞式が行われる。
地域文化とは何なのかを確かめに行ってきます。
5年前、20周年の折り大阪でお会いした佐治敬三理事長は、鬼籍に入られてお会いできないが、全国津々浦々で、地域文化に汗を流している多くの人達に会えるのが楽しみだ。もう一度「文化」を考えてきます。
その12 北九州市が「都」になる 2003.7.18
ひと足早く「阿国」を観てきました。(7/15 ル テアトル銀座)
木の実ナナ、池畑慎之介、上条恒彦、池田有希子など達者な役者のパワー溢れる舞台は、客席を圧倒し、芝居の醍醐味を満喫しました。
京都四条河原から江戸へ。阿国は叫びます。
「わたしが踊るところが都になる」
8月20日、北九州芸術劇場こけら落としの「阿国」公演。この日北九州市が「都」になる。
その13 文化新時代の幕開け 北九州芸術劇場オープン 2003.8.10
8月9日(土)、北九州芸術劇場オープンを2日後に控え、「北九州芸術劇場を市民で盛り上げる会」が開催された。
北九州地域で地道に文化活動を続ける200人の人達が、一堂に会して文化について語り合った。みんなこの街が好きなんだ。北九州市を文化都市にしたい、それを信じてそれぞれの分野で活動を実践している人達の一言一句には、重みがある。
ここから北九州市の文化が華開く予感がする。
8月11日、大・中・小3つの劇場を持つ北九州芸術劇場がオープン。
北九州市の文化新時代が幕を開ける。
その14 時間がゆっくり富山県利賀村 2003.9.23
9月13~14日、富山県利賀村で行われた「地球は舞台」のフォーラムに参加した。山のまた山に分け入って、たどり着く感のある利賀村は、正にエンゲキの里に相応しい。
ここでは時間がゆっくりと流れる。合掌造りの空間は、なんでもできますよと語りかけてるようだ。人口1000人のこの村は、世界に窓を開きながら、都会の喧噪と効率優先の現代を笑っているようだ。鈴木忠志氏の構想を受け入れ、育て上げた利賀村の村長さんと村民のみなさんに脱帽。
その15 笑顔が素敵な紅花の国やまがた国文祭 2003.10.15
10月11日~13日、山形県川西町での国民文化祭「プラザ演劇祭in川西」に参加した。川西町は井上ひさし先生のふるさとで、米沢市から電車で30分ほどの農村地帯。
のんびりかと思ったら、演劇祭は熱気と自信に溢れ、ボランティアの笑顔が心に残った。
9月に利賀村、今月は山形と北の町の文化の深さを感じる。
来年は福岡県でのとびうめ国文祭。
北九州演劇祭が全国から来られる多くの人達の出会いと感動の場になれるか、充分な準備が必要になる。
その16 本番目前座長の心境 2003.11.2
真夏の7月から、秋深しの季節まで3ヶ月、40回近くの稽古をこなし、一つの方向が見えてきたにも拘わらず、不安がある。
戯曲の見落としは無いか、道具の点検、舞台転換の打ち合わせ、音のタイミング、役者の健康状態、事故の心配。お客様が来て頂けるか。心配ごとを数え上げればきりがない。
40数年やってきたのに、不安が残る。
でもまだ出来ることがある。戯曲を読み直そう。作者が命を削って書いた戯曲の行間を読みとろう。ぎらぎらと目を輝かせて一緒に歩んできた仲間と共に、さあ、新しい劇場の扉を開こう。
劇場でお待ち致します。
その17 劇場が芝居を変えた 2003.11.15
11月8・9日、「白蓮と伝ネム」公演を待ちに待った北九州芸術劇場中劇場で終えた。
黒を基調とした濃密な空間。予想に違わず舞台と客席が一体となって、緊張感を漂わせ、役者と観客の息づかいが心地よい時間を刻んだ。ハードがソフトを作った。
北九州市民は、初めて「劇場」を手に入れたことを実感させる。
北九州芸術劇場中劇場は、正しく青春座の芝居も変えた。
生の声が客席の隅々まで染みこみ、観客の笑いが役者を激励した。
この劇場が市民生活に根を下ろし、市民に愛される芸術文化の殿堂になることを予感させる。
益々愛される劇場になるためには、よりソフトを充実させ日本一親切な劇場を目指す事だろう。
その19 困ったな、鳥インフルエンザ 2004.2.10
準備万端整えて稽古を始めた途端に、本物の鳥インフルエンザが出てきました。今のところ日本には上陸しそうにありませんが、何とも間の悪いことになりました。決して際物狙いをしたわけではありません。
「白蓮と伝ネム」のあとは現代物でと、1年前から準備をしていました。橋本和子先生の初稿のタイトルは「浩平と7人の女たち」でしたが、私が「バードウイルス来襲」としました。極限状態になったとき、人はどう行動するか、人間の本性を描いています。
因みに、感染症ウイルスを撒き散らす「赤い鳥」は、舞台の上だけです。ご安心を。。